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魚に何かしらの「可哀想である問題」がある場合、状態に異変が生じるのです。
では、何も異変が見られない場合でも「可哀想」と思ってしまうのは何故でしょうか。
それは多くの場合、自分の感覚に合わないだけであると思うのです。
つまり、自分の感覚にそぐわない事を「魚の代弁」と称して相手を否定しているだけなのです。
コケが多い、水槽が狭い、魚が過密である、底砂がない、隠れ家がない・・・等と「魚が可哀想」と思える要素はたくさんありますが、魚に状態異変が見てとれない場合、「魚が可哀想」という言葉にどれだけの正当性や根拠があるのでしょうか?
海千山千のアクアリストならば、自分の常識外の飼育法も正攻法として存在する事は理解しているものと思います。
「貴方の美的センスに合致しないだけではありませんか?」と問われれば、根拠が貧しているため返答に窮する事でしょう。
そして考えてみると、これはとても卑劣な行為ではないでしょうか。
自分の感覚に迎合させるために「魚が可哀想」という飼育者にとって、
最も不名誉である言葉を軽々しく使うのは許されません。
魚の感覚と人間の感覚が異なるのは当然の事でしょうし、自分と他者の感覚が異なる事も当然です。
私はこの事に気がついてからは、「本当に魚が可哀想なのか」「自分の美的感覚に合わないだけなのか」を意識して考えるようになりました。



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